幕末井上馨襲撃事件



井上馨が襲撃を受けた袖解橋
井上馨が襲撃を受けた袖解橋

山口市中園町(袖解橋付近で)井上馨、俗論派に襲撃される

  1864年9月25日 山口市内の政事堂で昼食抜き午後8時ごろまで会議は続く 倒幕か、幕府に恭順かで井上一人が頑張って「倒幕」に決定、帰路8時30分頃襲われる。 俗論派の椋梨藤太の次男中井栄治郎、周布藤吾、児玉愛二郎 他 助かったのは①杉孫七郎からもらった刀が②君尾からもらった鏡が、心臓を守った③母の手厚い看病④所郁太郎(医者)がいたこと 焼酎で消毒し、畳張り50針縫う大手術⑤吉富簡一の手伝いにより助かる。

 周布藤吾は、周布政之助の長男であり、第二次長州征伐の時に井上の配下で参戦し討ち死、児玉愛二郎は井上の従兄弟、新政府で井上の配下で出世した人物でした。 児玉は事件より20数年経って名乗りあげて真相を話し、お詫びに井上を襲撃した時に使った刀を贈呈しています。 身内であるはずの藤吾と児玉が襲撃犯であったとは、井上はどのように思ったのであろうか。


井上公園内井上馨と右隣に所郁太郎の顕彰碑
井上公園内井上馨と右隣に所郁太郎の顕彰碑

 井上公園 山口市内

井上 馨 の生家跡を公園としたもの。幕末に京都の政変で都落ちしてきた、三条実美[さねとみ]ら七卿の宿舎にもなった。園内にはその記念碑や井上馨の銅像、その隣に命の恩人である所郁太郎(医者)の顕彰碑が並んでいます。

袖解橋 ⇒ 井上公園  距離7~ 8間

 


周布政之助の慰霊碑
周布政之助の慰霊碑

 周布公園 山口市周布町

周布政之助の自害について 1864年9月26日05時ごろ吉富家の畑 吉富 簡一が俗論派に襲われた井上馨の手術の手伝いに行っている間に起こしている。
遺書は、3通 毛利敬親宛 簡一宛 杉孫七郎(甥にあたる)「倒幕、開国を訴えて」の諌死(かんし)と推定、身を隠している晋作へ決起して倒幕しろとの激と、孫七郎(政之助の甥にあたる)が政之助の意思を継いでいる。
・公家7人の意見等によって兵を京都に進発させたことについて(禁門の変)自分が政庁にいれば行かせなかった。三田尻まで進発を止めに使いを出したが1日違いでできなかった。それでも、敗北後の事後処理を岩国と相談しながら、遺書を抱えて京都までいって周旋を行っている。  周布政之助の詳細 周布政之助の自害


維新の風 周布政之助

激動の幕末、明治維新に導いたスーパー指導者
長州・周布政之助の物語です。

1 石見の藤原 周布城主 大内義胤 浅野家に 萩に生まれし

 政之助 明倫館の 育て親 家訓は 人には 忠孝を 教え

2 黒船馬関に 文明を 公民一緒に 国難を 松陰血判

 十七士 機を待て激情 押しとどめ 長州  幕府に 維新の 風を

3 毛利家たよって 関所越え 京の公家七人 西京へ 周布は大酔い

 長説教 よろい 獄中晋作に 信念を 鎧を 与えて 親ごころ 教え

4 開国外交 大成を そうせい殿さん 藩庁門 少年奇兵隊 

 益次郎 錦の御旗が鎖国解く 清風と 祝盃 周布は 天国へ



スライド写真

1 湯田温泉配場所 

2 温泉舎(ゆのや) 

3 薬師堂(元野原旅館)

4 薩長3傑 西郷・大久保/木戸会見所 ーー「薩長同盟を結ぶため」

  これに先立ち楫取元彦と坂本龍馬が同盟へ向けて尽力をした(松田家旅館)

5 伊藤博文 書(松田家旅館)

6 十境詩(松田家のとなりの筋)